医師 崔承彦

みなさんこんにちは。医師の崔承彦(ちぇすんおん)と申します。このたび令和7(2025)年7月1日に「ぶどうの木なべしまクリニック」を自宅に近い佐賀市鍋島町に開設させていただきました。微力ながら地域のみなさまの健康管理のお役に立てればと思っております。なにとぞよろしくお願いいたします。
このページでは私の自己紹介をさせていただきます。
1969年1月福岡生まれ、1987年 熊本県立熊本高等学校卒業
1993年 佐賀医科大学医学部卒業
その後の経過
佐賀医科大学を卒業してすぐ同大学病院総合診療部に入局しました。総合診療部とは一言でいうと専門分化が進む医療業界の中で、全人的医療を心がける診療部門です。「総合診療」を提唱したのは故日野原重明医師で、佐賀医科大学設立時の構想に関わられ国立大学病院では初めて総合診療部が設置されました。入局してから福井次矢教授、小泉俊三教授に直接ご指導いただきました。佐賀医科大学附属病院(現佐賀大学医学部付属病院)では吉原幸治郎先生、山城清二先生らにご指導いただき、祐愛会織田病院(佐賀県鹿島市)、佐賀県立病院(現佐賀県医療センター)好生館、などで各専門内科、総合診療科、放射線科、消化器外科、救命センターなどで、すばらしい臨床医の先輩方に薫陶を受け計5年間修行しました。その後、北海道幌加内町立病院で3年間僻地医療を経験しました。2001年春、妻と娘2人と共に佐賀に戻り、母校に近い角目(つのめ)に自宅を構えました。佐賀市大財の副島病院で5年、佐賀記念病院で10年間内科医として勤務しそろそろ独立を考えていたとき、医療法人を経営されていた医局の先輩でもある福田幸弘先生より事業継承のお誘いを受け、2017年5月から法人を継承し独立開業することになりました。引き継いだグリーンクリニックは設立以来訪問診療の先駆けとなった伝説のクリニックでした。前任の福田医師は一人で10年以上24時間365日体制の往診体制を守り疲労されていました。わたしはそれまでは入院診療などで訪問診療する先輩をサポートする側でしたが、反対の世界に入りました。その後2020年1月佐賀市水ケ江に有床診療所「ぶどうの木クリニック」を開設。2025年5月に同退任。同年7月1日より「ぶどうの木なべしまクリニック」を個人開設しました。これまで多くの皆さまの御支援を受けここに至っています。すべてのかたに感謝し、皆さまと社会に少しでも恩返しができるよう残りの人生をかけてこの事業に取り組みたいと思っています。
プロフィール
- [名前]
- 崔承彦(ちぇすんおん)
- [趣味]
- 仕事・音楽(チェロ演奏)
- [おいたち]
- 私の祖父は大正時代に朝鮮半島から対馬を経て福岡にやってきました。福岡で祖父は「真っ赤な服を着ていた」同じ朝鮮半島出身の祖母と出会い私たちの家族の歴史が始まりました。博多湾に注ぐ那珂川の博多の対岸に位置する千代には、終戦時に250万人近くいたと言われる朝鮮半島出身者が博多港から帰還するため多く集まっていました。終戦を迎えるにあたり「最後の勅令」として公布されたのが当時植民地であった「朝鮮半島、台湾出身者の日本国籍を停止し、今後外国人とみなす」というものでした。これにより戦時・戦後社会保障の対象から外れることになります。祖父は帰還者のサポートをしながら千代町にキリスト教会を設立し代表者である長老をしていました。教会では炊き出しをして苦労していた同胞たちのサポートをしていたのです。祖父母はそのまま福岡の千代で暮らし続け、4人の子どもたちを育てました。わたしが物心ついたとき祖父母は千代に近い吉塚で靴屋さん「妙見靴店」を経営していました。靴屋をはじめたばかりの戦後間もない物資が不足しているころは、生肉から仕立てた革から靴を作り販売していたものが、購入したお客さんから「犬がすぐ咥えて持って行ってしまう」と苦情が入った、「十分乾かさず慌てて作ってしまったけんたい!」と大笑いしていました。さておき、これからは皆が「靴」を求める時代たい!と靴屋さんは繫盛していたようです。
- 私は1969年1月、在日3世として福岡でクリスチャンホームに生まれました。父は九州大学を卒業したのですが、就職口がなく同胞から引き継いだ廃品回収業「地金屋」を白木原で営んでいました。父と母は毎日真っ黒になって家屋解体現場や自動車工場などから運び込まれたスクラップの解体作業をし、大きなトラックに山積みにし、日経新聞の細かい景気の動向をみながらタイミングよく北九州の製鉄所に運んでいましたが、私が小学生のときに「突然」キリスト教の牧師になりました。突然と思いましたが、当時小倉で牧会をしていた崔昇華牧師のすすめで西南学院大学の神学部で牧師になる勉強をしていたのです。父が見習い牧師の資格を得て日本で一番大きな同胞の教会である、大阪市生野区にある大阪教会に勤務することなり、家族で大阪に転居しました。その後父は母の実家のあった熊本で牧会をすることになり、中学、高校時代は熊本で過ごしました。わたしは1987年佐賀医科大学に進学したのをきっかけに佐賀に住むようになりました。当時は佐賀大和インターを降りてまだバイパス道路が整備されておらず嘉瀬川の河川敷を通って広大な菜の花畑を眺めながら大学を訪れた思い出があります。堀江通りには大和紡績の工場が残り、国鉄佐賀線が廃止されたばかりのころでした。大学時代は鍋島町蛎久町のアパートではじめての一人暮らしで、勉強もそこそこにラグビーや音楽に明け暮れる日々でした。
- [音楽との出会い]
- 幼いころから教会学校では讃美歌に親しみます。父母が聖歌隊で歌う姿をいつもうらやましく見ていました。音楽は幼少時より福岡音楽学院に通い、音楽の初等教育を受けました。私には一つ年上の兄がおりますが、兄はずっとピアノを習っており、私もいつか。。とおもっていたのですが、父にすすめられ小学1年生よりチェロを習い始めました。父は別の楽器をさせたかったようです。のちに弟はヴァイオリンをはじめました。。
チェロの師匠は故岩木皎先生、社会人になって日フィルOBの奈切敏郎先生に師事しています。2001年より佐賀交響楽団に入団。また佐賀出身で東京都交響楽団で活躍されたヴァイオリニストの久原興民先生が2002年設立したアルモニア管弦楽団にお誘いを受け、そこで薫陶を受け、貴重な経験をし幅広い音楽に接する機会を得ています。